宇宙のどこか、地球から数十億光年もかなたで、宇宙のビッグバンに伴って生まれた光は、外側へと進み続けながら新たな領域を切り開いています。 まったく対照的に、地球上では別の形態の電磁放射線、つまり電波が、「ザ・ルーシーショー」の初回生放送を深宇宙のどこかに向けて、振幅を大きく減じながらも放送しています。
どちらの現象も、背後にある基本概念には光(およびあらゆる形態の電磁放射線)の速度が存在します。
光の速度は、科学者が徹底的に調べてきましたが、現在は記号cで式に表される定数です。 実際には定数ではなく、真空中での最大速度なのですが、光の速度は約300,000 km/秒であり、媒質の変化や量子干渉によって操ることができます。
均一物質(媒質)内を進む光は、他の何らかの方法で屈折、反射、回折、または摂動されない限り、比較的一定の速度で一直線に進みます。 科学的事実が確立したのは、原子力時代やルネサンス時代ではありません。最初に打ち出したのは古代ギリシャの学者ユークリッドで、彼が紀元前350年頃に発表した画期的な論文「オプティカ(Optica)」に記されています。 しかし、光(およびその他の電磁放射線)の強度は、伝搬した距離の2乗に反比例します。 したがって、光がある距離の2倍伝搬すると、強度は4倍低下します。
空気中を伝搬した光が、ガラスや水などの異なる媒質に入ると、光の速度と波長は低下します(図2)が、周波数は変わりません。 光は真空中では約300,000 km/秒で進み、屈折率は1.0です。しかし、水中では225,000 km/秒(屈折率1.3、 図2)に減速し、ガラス中では200,000 km/秒(屈折率1.5)になります。 ダイヤモンド中では屈折率は2.4とかなり高くなり、光の速度は比較的遅くなります(125,000 km/秒)。真空中の最大速度の約60%です。
宇宙の銀河間(図1参照)や天の川の中で光の伝搬は途方もなく長い距離になるため、星どうしの距離はkm単位ではなく光年単位、つまり光が1年で伝搬する距離で測ります。 1光年は9.5兆km、または約5.9兆マイルに相当します。 地球から、太陽系外で最も近い星、プロキシマ・ケンタウリまでの距離は、約4.24光年です。 これに対して、天の川銀河は直径が約150,000光年と推定されており、アンドロメダ銀河までの距離は約221万光年です。 つまり、光が途中で天体に反射したり破片によって屈折したりしない限り、アンドロメダ銀河から221万光年前に発せられた光が今地球に届いている、ということです。
天文学者が夜空を見つめるとき、実際の時間と、少し前の過去、そして太古の歴史が入り混じったものを観察しているのです。 例えば、先駆者であるバビロニア人やアラブの占星術師、ギリシャの天文学者が星座について語っていた時代、さそり座にはしっぽの部分がありました。 星座のしっぽ部分あたりの星は、紀元前500年から1000年にかけて新星として夜空に見えましたが、現代の天文学者はもう見ることができません。 地球から見える星には、消滅してからだいぶ経つものもありますが、その像を運ぶ光波はいまだに肉眼や望遠鏡に届いています。 実際には、星の破滅から発せられた光(そして消滅による暗闇)は、時間が十分に経っていないため、深宇宙の果てしない距離を渡り切れていないのです。
紀元前450年頃に活躍したアクラガスのエンペドクレスは、光は有限速度で進むと推測した史上最初の哲学者の1人です。 ほぼ1000年経った紀元後525年、ローマの哲学者で数学者でもあるアニキウス・ボエティウスは光の速度を記録しようとしましたが、反逆と魔術の罪に問われ、科学的な試みの罪で斬首されました。 中国人が黒色火薬を爆竹や信号に最初に応用して以来、人類は光の速度を問い続けています。 光と色が瞬き、数秒後に爆発音がすることから、光の速度が音の速度を明らかに上回ると理解するのに難しい計算は不要でした。
中国人は、爆薬の秘密を手に13世紀半ばに西洋へと向かい、光の速度に関する疑問ももたらしました。 この時代以前、他の研究者は、一般的な雷雨のとき閃光後に雷鳴が遅れてくることについて考えたに違いありませんが、遅延の性質についてもっともらしい科学的説明はありませんでした。 アラビア人の学者アルハゼンは、光には有限速度があると推測した最初の本格的な光学科学者(紀元後1000年頃)で、紀元後1250年までにはイギリス人の光学先駆者であるロジャー・ベーコンが、光の速度は非常に速いが有限なことを著作にまとめました。 それでも、この時代の大半の科学者に広く支持されたのは、光の速度は無限で測定不可能という考えでした。
1572年、著名なデンマーク人天文学者ティコ・ブラーエが初めて、カシオペア座に現れた超新星について書き記しました。 この天文学者は、夜空に突然現れた「新星」がゆっくりと明るさを増し、18か月かけて徐々に見えなくなる様子を観察し、当惑しながらも興味をそそられました。 新しい天体の見え方によって、ブラーエや同時代の学者は、宇宙は完全かつ不変で光の速度は無限であるという広く支持された考えに疑問を抱くようになりました。 光の速度は無限であるという考えはなかなか覆されませんでしたが、16世紀には少数の科学者が光の速度に疑問を抱き始めました。 1604年にようやく、ドイツ人の物理学者ヨハネス・ケプラーが光の速度は瞬間的であると推測しました。 彼は著作物の中で、宇宙の真空は光の速度を減速しないと論じ、同時代の学者によるエーテル(宇宙を満たし、光を運ぶとされていたもの)の追求をある程度阻みました。
望遠鏡が発明され、多少改良されて間もなく、デンマーク人の天文学者オーレ・レーマーが初めて、綿密な試みで光の速度を推定しました(1676年)。 レーマーは、木星の惑星イオと頻繁な食を研究することで、惑星の食周期を予測することができました(図3)。 しかし数か月後、食の間隔がしだいに広がり予測が徐々に不正確になり、誤差は最大約22分でした(その時間の光伝搬距離を考えるとかなり大きなずれです)。 奇妙にも、周期が繰り返す中で、彼の予測は数か月にわたり再びさらに正確になりました。 パリ天文台で研究を行っていたレーマーは、観察された相違の原因は、地球と木星との距離が惑星の軌道によって変動することだとすぐ気付きました。 木星が地球から離れると、光は長い距離を伝搬しなければならず、地球に到達するまで余分に時間がかかります。 当時算出された精度の高くない地球と木星の距離を適用し、レーマーは光の速度を1秒あたり約137,000マイル(220,000 km)と推定できました。 図3はレーマーが描いた図の複製で、光の速度の算出に使用した方法を示しています。
レーマーの研究に科学界は沸き立ち、多くの研究者が光の無限速度に関する推論を再考し始めました。 例えばアイザック・ニュートン卿は、1687年に発表した画期的な論文「自然哲学の数学的諸原理」の中で次のように記しています。「木星の衛星の現象から、さまざまな天文学者の観測によって確認されたように、光は連続して伝搬し、太陽から地球への移動に約7、8分かかることが明らかである」。これは実際、正確な光の速度に驚くほど近い数値です。 ニュートンの名高い考えは広く普及して、科学革命を活性化させるきっかけとなり、光の速度を有限と認める科学者によって新たな研究が立ち上がりました。
次に有用な光の速度の推定を示したのは、イギリス人の物理学者ジェームズ・ブラッドリーでした。 ニュートンが亡くなった翌年の1728年、ブラッドリーは恒星の光行差を用いて、真空中における光の速度を約301,000 km/秒と推定しました。 この現象は、太陽の周りを回る地球の動きによる星の位置の明らかな変動によって現れます。 光行差の程度は、地球の軌道速度と光の速度の比率で決まります。 ブラッドリーは、光行差角度を測定し、データを地球の軌道速度に適用することで、驚くほど正確な推定値を得ました。
1834年、万華鏡の発明者であり音の科学の先駆者でもあるチャールズ・ホイートストン卿は、電気速度の測定を試みました。 ホイートストンは回転鏡とライデン瓶による容量放電を利用する装置を発明し、8マイル近い電線を通して火花の動きを生成し、測定しました。 残念ながら彼の計算は(おそらく使用した装置も)誤りを生み、電気の速度を288,000マイル/秒と誤って算出した結果、電気は光より速く伝搬すると信じるまでに至りました。 ホイートストンの研究は、後にフランス人の科学者ドミニク・フランソワ・ジャン・アラゴが展開しました。 アラゴは、1850年に視力を失うまでに研究を完成できませんでしたが、光は水中では空気中より伝搬が遅くなると正しく仮定しました。
一方フランスでは、ライバル関係にある科学者アルマン・フィゾーとジャン・ベルナルド・レオン・フーコーがそれぞれ光の速度の測定を試みました。天文事象に頼るのではなく、ホイートストンの回転鏡装置設計に対するアラゴの発見と展開を利用しました。 1849年にフィゾーが設計した装置は、(回転鏡の代わりに)歯車から光線を放ち、5.5マイル離れた位置にある固定鏡に反射させるというものでした。 歯車を高速回転させることで、歯車の歯と歯の間を通る光線を外部に伝搬させ、反射して戻ってきた光線が隣接する隙間を通るようにしました。 フィゾーは、歯車の速度と発せられた光が伝搬する距離を使用して光の速度を計算できました。 光は空気中の方が水中よも速く伝搬することも発見しました(アラゴの仮説の確認)。この事実は、同郷の研究仲間であるフーコーが後に実験で確認しました。
フーコーは光の速度の測定に、圧縮空気タービンで駆動する高速回転鏡を採用しました。 彼の装置(図4参照)では、細い光線が開口部を通って、細かい目盛りのスケールの付いたガラス窓(ビームスプリッターとしても作用)を通過した後、高速回転鏡に当たります。 回転鏡から反射した光は、一連の固定鏡によってジグザグに方向づけられます。装置のサイズを大きくせずに光路長を約20メートルに延長するための設計でした。 光が一連の鏡を反射して回転鏡に戻るまでの時間で、鏡の位置に若干のずれが生じました。 続いて、回転鏡のずれた位置から反射した光は、新たな光路を通って光源に戻りながら、装置に取り付けられた顕微鏡に入ります。 光のわずかなずれは顕微鏡で確認し記録できました。 装置で収集したデータを解析し、フーコーは光の速度を298,000 km/秒(約185,000マイル/秒)と計算できました。
フーコーの装置の光路は、空気以外の媒質を通過する光の速度を測定するのに十分な長さでした。 彼は水やガラスの中での光の速度は空気中の場合の約2/3に過ぎないことを発見したほか、特定の媒質を通る光の速度は屈折率に反比例するとの結論も下しました。 この注目に値する結果は、光の伝搬の波動説から何百年も前に展開された光の性質に関する予測と一致しています。
フーコーに続き、ポーランド生まれのアメリカ人物理学者アルバート A. マイケルソンは測定精度の向上に努め、1878年にイギリスのセバーン川岸に沿って設置した2,000フィート長の改良版装置を使用して、光の速度の測定に成功しました。 マイケルソンは、フーコーの装置より大幅に長い光路で光線を集束、反射させる高品質なレンズと鏡に投資し、最終的に186,355マイル/秒(299,909 km/秒)と算出しました(約30マイル/秒の誤差の可能性を考慮)。 実験設計の改良により、マイケルソンの測定精度はフーコーのものを20倍上回りました。
1800年代後半になっても、多くの科学者は光が宇宙を伝搬する際にエーテルという伝搬媒質を利用していると信じていました。 1887年、マイケルソンは科学者モーリーと協力して、地球が太陽の周りを回るときの光の速度の相対変化を観察することによりエーテルを検出する実験方法を考案しました。 この目的で設計された干渉計は、光線を2つに分割して、それぞれを異なる光路に方向づけるものでした。各光路は長さ10メートル超で、複雑に配置された鏡が使用されました。 マイケルソンとモーリーは、地球がエーテルを媒質として移動しているなら、エーテルの流れに垂直に反射を繰り返す光線は、エーテルと平行に反射する光線より速く伝搬すると推論しました。 光線が干渉を通って再結合されると、一方の光線の遅延として検出できるというものでした。
マイケルソンとモーリーが作成した実験装置は大掛かりなものでした(図5)。 5フィート四方以上、厚さ14インチのゆっくり回転する石板に取り付けられた装置は、摩擦のない衝撃吸収装置として作用する水銀のプールに浮かべられ、地面からの振動から保護されました。 石板は、動き出すと最高速度は10回転/時に達し、再び停止するまで数時間かかりました。 ビームスプリッターを通ってミラーシステムで反射された光は、顕微鏡で干渉縞が調査されましたが、何も観察されませんでした。 しかし、マイケルソンは干渉計を使用して、光の速度を186,320マイル/秒(299,853 km/秒)と正確に算出しました。値はその後25年にわたり基準となりました。 マイケルソン・モーリーの実験で光の速度の変化を検出する試みが失敗したことから、エーテル論争の終焉が始まり、20世紀初頭のアルベルト・アインシュタインの理論によって最終的に葬り去られました。
アインシュタインは、1905年に「特殊相対性理論」、1915年に「一般相対性理論」を発表しました。 最初の理論は、互いに一定の速度で動く物体の動きに関するもので、2つ目の理論は加速および重力との関わりに注目したものです。 理論は、アイザック・ニュートンの運動の法則など数多くの長年にわたる仮説に挑むもので、物理学に革命的な影響をもたらしました。 相対性の考えは、物体の速度は観察者の位置に対してのみ測定できるという概念を具体化したものです。 例として、飛行機の中を歩いている人は、飛行機の基準系内では約1マイル/時で移動しています(飛行機自体は600マイル/時で移動しています)。 しかし、その人は601マイル/時で移動しているように地上の観察者には見えます。
アインシュタインは計算において、2つの基準系間を伝搬する光の速度は、どちらの位置にいる観察者にとっても同じであると仮定しました。 一方の基準系にいる観察者は、もう一方の基準系内にある物体の位置と速度を判断するため光を使用し、観察者が物体の位置と速度を関連付ける方法が変わります。 アインシュタインはこの概念を採用して、基準系内の物体が、基準系と比較して均一に動く別の基準系からどのように見えるかを説明する重要な公式を導き出しました。 結果から得た結論の一部は変わったものでした。ただし、その作用が顕著になるのは、物体の相対的速度が光の速度に近付く場合のみです。 つまり、アインシュタインの基本理論と頻繁に参照される相対性理論の方程式の意味合いは、次のとおりです。
これは次のように要約できます。
物体の速さが増すと、観察者に対して物体の長さは減少します。
基準系が移動している場合、時間間隔は短くなります。 つまり、光と同じか近い速度で移動している宇宙旅行者は、数か月経って地球に戻ってきたとき、地球を数年間離れていたことになります。
移動する物体の質量は速度とともに増し、速度が光の速度に近づくと、質量は無限に近づきます。 このことから、無限の質量を加速させるには無限のエネルギーが必要になるため、光より速く移動することは不可能だと広く信じられています。
アインシュタインの理論は物理学の世界全体に影響を与えましたが、とりわけ光の研究を行っている科学者には重要な意味を持ちました。 理論は、マイケルソン・モーリーの実験で期待した結果が得られなかった理由を説明するものであり、エーテルの伝搬媒質としての性質を本格的に研究する機運をそぐことになりました。 真空中で光より速く移動できるものはなく、この速度は一定で不変の値であることも示されました。 一方で、実験科学者らは高度化した装置を用いて、光の速度の正確な値に重点を置き、測定誤差を抑えることに専念し続けました。
年 | 研究者 | 方法 | 推定km/秒 |
---|---|---|---|
1667 | ガリレオ・ガリレイ | 覆いをかけたランタン | 333.5 |
1676 | オーレ・レーマー | 木星の衛星 | 220,000 |
1726 | ジェームズ・ブラッドリー | 恒星の光行差 | 301,000 |
1834 | チャールズ・ホイートストン | 回転鏡 | 402,336 |
1838 | フランソワ・アラゴ | 回転鏡 | |
1849 | アルマン・フィゾー | 回転歯車 | 315,000 |
1862 | レオン・フーコー | 回転鏡 | 298,000 |
1868 | ジェームズ・クラーク・マクスウェル | 理論計算 | 284,000 |
1875 | マリー・アルフレッド・コルニュ | 回転鏡 | 299,990 |
1879 | アルバート・マイケルソン | 回転鏡 | 299,910 |
1888 | ハインリヒ・ルドルフ・ヘルツ | 電磁放射線 | 300,000 |
1889 | エドワード・ベネット・ローザ | 電気測定 | 300,000 |
1890年代 | ヘンリー・ローランド | 分光法 | 301,800 |
1907 | エドワード・ベネット・ローザとノア・ドーシー | 電気測定 | 299,788 |
1923 | アンドレ・メルシエ | 電気測定 | 299,795 |
1926 | アルバート・マイケルソン | 回転鏡(干渉計) | 299,798 |
1928 | オーギュスト・カロリュスとオットー・ミッテルステット | カーセルシャッター | 299,778 |
1932~1935 | マイケルソンとピース | 回転鏡(干渉計) | 299,774 |
1947 | ルイ・エッセン | 空洞共振器 | 299,792 |
1949 | カール I. アスラクソン | ショーランレーダー | 299,792.4 |
1951 | キース・デイビー・フルーム | 電波干渉計 | 299,792.75 |
1973 | ケネス M. イベンソン | レーザー | 299,792.457 |
1978 | ピーター・ウッズら | レーザー | 299,792.4588 |
19世紀後半に電波とマイクロ波の技術が進歩すると、光の速度を測定する新たな方法が生まれました。 レーマーの先駆的な天体観測から200年以上を経た1888年、ドイツ人物理学者ハインリヒ・ルドルフ・ヘルツが電波の速度を測定しました。 ヘルツは300,000 km/秒付近の値を得て、電波と光はどちらも電磁放射線の形態をとるというジェームズ・クラーク・マクスウェルの理論を確認しました。 1940年代と1950年代にはさらなる証拠が集められ、イギリス人物理学者キース・デイビー・フルームとルイ・エッセンは、電波とマイクロ波をそれぞれ利用して、電磁放射線をさらに正確に測定しました。
マクスウェルも、光の速度や電磁放射線の他の形態を定義する上で、測定ではなく数学的結論によって高い評価を得ています。 彼は、電気と磁性の関係を見出すための研究で、電場を変動させると磁場が生成されるという、ファラデーの法則の逆の推論を理論化しました。 電磁波は振動する電波と磁波を結合し構成されると説き、宇宙における速度を次のように計算しました。
εは誘導率、µは真空の透磁率であり、この2つの定数は比較的高い精度で測定可能です。 結果の値は光の速度の測定値にかなり近くなります。
1891年、光の速度と天文学の研究を続けていたマイケルソンは、カリフォルニアのリック天文台で屈折望遠鏡を使用した大規模干渉計を製作しました。 彼の観察は、星などの遠くにある物体を見ているときの光の到達時間の遅れに基づいたものであり、定量的に分析することで天体のサイズと光の速度の両方を測定できました。 約30年後、マイケルソンは実験の場をウイルソン山天文台に移し、同じ技法を当時世界最大の100インチ望遠鏡に用いました。
実験設計に八角形の回転鏡を組み込み、マイケルソンは光の速度として299,845 km/秒という値を得ました。 マイケルソンは実験の完了前に亡くなりましたが、ウイルソン山天文台の共同研究者であるフランシス G. ピースが引き続き画期的な技法を取り入れ、1930年代に入っても研究を行いました。 ピースは、改良した干渉計を使用して数年にわたり数多くの測定を重ねた結果、最終的に光の速度の正確な値を299,774 km/秒と特定しました。当時最も正確な測定値でした。 数年後の1941年、科学界は光の速度の基準値を定めました。 値は299,773 km/秒で、当時最も正確な複数の測定値を基にしたものでした。 図6は、過去200年にわたる光の速度の測定値をグラフで示したものです。
1960年代後半までに、周波数と波長が高度に設定された安定した研究ツールとして、レーザーが使用されるようになりました。 1958年にキース・デイビー・フルームがマイクロ波を使用して行った実験方法と同様に、周波数と波長を同時に測定すると光の速度の値を非常に正確に測定できることがすぐに明らかになりました。 米国などの国で複数の研究グループが、ヨウ素安定化ヘリウムネオンレーザーから633ナノメートルの周波数を測定し、高精度の結果を得ました。 1972年には、米国標準技術局がレーザー技術を採用して速度を299,792,458 m/秒(186,282マイル/秒)と測定しました。最終的に、光の速度の高精度な推定によりメートルが再定義されました。
レーマーが1676年に行った画期的な試みから始まり、光の速度はさまざまな手法で少なくとも163回、100名超の研究者によって測定されました(方法、研究者、年のまとめは表1を参照)。 光の速度は、レーマーによる17世紀の計算値から大きく変わっていないものの、科学的手法や装置の改良につれて推定値の誤差限界は小さくなりました。 最初の本格的な測定から300年以上経った1983年、第17回国際度量衡総会において、光の速度は299,792.458 km/秒と定義されました。 メートルは、光が1/299,792,458秒間に伝搬する距離と定義されました。 ただし一般的には(多くの科学的計算においても)、光の速度は切り上げて300,000 km(186,000マイル)/秒とされています。 光の速度の基準値が定められたことは、国際単位の確立にとって重要でした。世界中の科学者がデータや計算値を比較できるようになったといえるでしょう。
一部の研究者が示唆しているように、膨張が光の速度よりも大幅に速く進んだというビッグバンの時代以来、光の速度が遅くなっていることを示す証拠があるかどうかについては、論争が存在します。 意見の提示や反論によって論争は延々と続いていますが、ほとんどの科学者は光の速度が一定であると主張しています。 物理学者は、レーマーや追随者が測定した実際の光の速度が大きく変わっていないことに注目しますが、むしろ取り上げるべきは、光の速度を確立するために測定値の精度向上に貢献した科学的装置の数々の改良です。 今日、木星・地球間の距離は高い精度で分かっています。太陽系の直径や惑星の軌道も同様です。 研究者がデータを使って過去数世紀にわたり行われた計算をやり直すと、最新の高度な装置で取得した値に匹敵する光の速度の値が得られるのです。
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